例えばそれは世界の端のように
033:たった一つ、遺されたもの
激烈な焦りは周防尊の中で身を灼いた。ありきたりな後悔と懺悔に振り回された尊が唯一感じられるのはそれだけだった。だから尊は草薙出雲にそれをそのまま口にした。草薙は苦しいような辛いような顔をして嘆息した。まだ戻ってきぃへんねんぞ。戻ってきたとしてお前、それは褒められることちゃうで。草薙が言葉を絞り出す頃合いには尊の目線は部屋の半ばへ投げられていた。薄暗いバー。管理が杜撰で結局志願した草薙の城になった。前髪が下りていた頃からの付き合いであるから草薙につられて尊もバーに出入りした。今では二階の居住部分へ猫のように居着いてしまった。無意識的に探してしまうもう一人の存在は目を覚ますごとに気をくじく。
「十束の体に何をする気なん」
「…あいつがほしい、だけだ」
十束多々良は知らないうちに尊の周りに寄り付いて知らない間に溶け込んで知らないところで死んだ。一報を受けてからねぐらのバーは嵐のごとく騒ぎになった。知らせで駆けつけた草薙ともう一人の少年の動揺は激しかった。様々な介入と調査という侵犯があり尊も独自に情報を集めだした。バーをねぐらに集まる団体の古株ではおさまりのつかないだけの重みが十束にはあった。尊だけではなく草薙や八田美咲といった幹部も動いている。せかされるだけ急かされて、尊は不意に立ち止まってしまった。もう十束多々良は帰ってこない。バーに顔を出すこともないしともに騒ぐこともない。冷たい体は食べないし笑わないし話さない。定着した呼び名をはじめに呼び出したのが十束なのだと不意に気づいて、その瞬間から尊の足は埋もれたように動けなかった。
みこと、お前少し休み。いろいろありすぎてお前疲れとるんやと思う。普段つけつけとした物言いの草薙が言葉を選んでいることが尊を頑なにさせた。平素から言葉少なな尊が返す言葉はなかった。そのままバーを出る。はね返りの強い雨。激しい雨音が耳の奥をじくじく犯す。草薙の声がかすれて聞こえないほどの雨の中へ傘もなしに歩き出す。この雨がいつから降っていたのかも判らない。
「みこと」
腕を引かれて振り向く。店から飛び出してきた草薙が表情を歪めた。降りつける雨垂れが目を眇めさせる。泣きそうだなと思った。
「十束はもう、帰ってこん。戻ってくる言うてもな、あいつはもう」
生きてへんねやぞ
尊は気だるげに口を開いた。
「勝手にしろ」
草薙の体温がいつの間にか離れていた。掴まれた腕を振りほどいたのか草薙が離したのかは曖昧だ。そのまま歩き出す尊を草薙は今度こそ止めなかった。
雨垂れに濡れた髪が一房二房とあらわな額へ張り付いては落ちてくる。そのたびにかき上げる。普段から前髪を上げているから鬱陶しいのだ。無闇矢鱈に歩きまわった。視界が烟るほどの雨に出歩くような輩はあまりいない。服も靴も、その奥の皮膚さえふやかすほどに雨垂れに濡れそぼつ。大事な人が亡くなった後に降る雨ね、涙雨っていう雨があるんだって。泣かない人が泣いてるんだって。十束のゆったりとした語り口を思い出す。威嚇的な面子が多い中では毛色が違う。十束は小動物のそれのように小首を傾げて微笑った。だいじょうぶ。ね、キング。十束の声が方向を狂わせる。磁場の歪んだ磁石のように尊の方向感覚は定まらない。気のむくままの方向へひたすら歩いた。バーをねぐらにする面子と顔を合わせたくなかった。怒鳴りつけそうだった。それで済めばいい。行き場をなくした奔流がどのように発露するかわからないほどきつくて強い衝動は殺すしかない。すべて抑えるか、全て放つか。解放への興味や魅力に揺らぎながらその惨事さえ想像がつく。擦り切れていく。
十束多々良との付き合いは深い。制服のある学校へ通っていた年頃からの付き合いだ。感情の起伏を表に出さないせいで感じていないと思われがちだが感じないわけではない。流される訳にはいかないだけの破壊力があると判っているからそうしているのだ。感情のまま流されて力を解き放ってやりたい気持ちはある。どうなるかもわかってる。判らないと思うのに十束は尊に向かって笑って言う。だいじょーぶ。だってキングだから、ね?
「だいじょうぶ」
何度も言われ聞いてきた言葉を繰り返す。コォンと耳の奥で鳴るものがある。まずいと判っている。でも。十束は、死ん 尊 、 て…――
「周防?」
はっと顔を上げたそこには艶のある布地で張られた傘をさす宗像礼司が居た。目があった瞬間に宗像の表情が揺らいだ。それは嫌悪や憎悪というよりは驚きや憐憫に近い揺れだった。親しみには遠く他人よりは近い距離で宗像は尊に声をかけてきた。
「周防、なぜお前がここに……吠舞羅はだいぶ方向が違うぞ」
「十束ァ死んだ」
宗像は眉を震わせただけて返事をしない。尊の視界は雨垂れで何度も遮られた。十束が死んだ。十束が、ほしい。このままいなくなる、なんて。がくん、と膝が砕けた。そのまま崩折れるところへ宗像が走り寄って来るのだけが見えた。視界が薄暗い。暗い。黒一色に。
「十束多々良がほしいのか」
ことばにならない思いに尊は頷いた。なにか聞かれていることは判ったが判別できない。ほしい、と頷きだけを繰り返した。
「これはどういうことですか」
穏やかな笑顔のこめかみが攣っているのが尊からも見えた。指先が胡乱に耳のピアスへ触れる。ピアスホールはしょせん傷である。維持するためには基本的にピアスをしていなければならない。体の治ろうとする反応が消えるまで根気よくピアスを付けて金属で皮膚や肉を遮る。簡素な寝台に腰を下ろした尊の前には複数の男が転がっている。
「……知らねぇ。そっちから売ってきやがったンだ」
「判りました。そちらは処理しましょう。ですが周防。私が訊いているのはなぜあなたがここに打ち込まれているかということです」
「騒ぎになったからだろうがよ」
眉間に指先を当てて眼鏡をきらめかせた宗像が深い溜息をついた。腹の底から吐き出す呼気はやりきれなさに肩まで落とす。
宗像は結局人を呼び、気絶している男たちを運び出させた。尊はぼんやりと指示を出す宗像を眺めていただけだ。周防尊に話がある。…言えよ。オレからの話だ。一人称が変わるのは公私の切り替えだ。尊の眉がぴくりと跳ねる。個人として話すというのであれば内面的なものかもしれない。構える尊をそのままに宗像は扉と施錠を確かめる。完全に二人きりだ。牢舎で男二人とはぞっとしない。
「最近、荒れているようだな」
隠しから取り出す煙草を咥えられて尊が文句をつけた。禁煙だって取り上げられたぞ。宗像が箱を投げつけてくる。尊も一本取り出すと咥えた。火をつけた宗像の方へずいと突き出す。煙草の先端が触れ合うタイミングで息を吸い、火を貰う。近づいても離れても宗像は動揺しないし何も言わない。
お前には貸しがあるはずだが。言われた尊の指が思わずピアスへ伸びた。耳の軟骨を貫通させているそれは鈍い赤色に煌めく。ただの装飾品ではない。先だって死亡した十束多々良の血液が封じられている。
「それを手に入れるためにオレもずいぶん無理を通した。雨の中で泣いていたお前を介抱してやっただけでも貸しだ」
尊はむっと眉を寄せたがそれ以上何も言わない。雨の中へ闇雲に飛び出した尊は宗像に介抱されて、十束多々良の送り出しを何とかこなした。宗像の方で何も訊かなかったし言ってこなかったので尊の方でも何もしなかった。荒れに荒れた尊を落ち着かせたのは宗像が持ち込んだピアスだった。十束多々良だ。そう言われて渡されたピアスの色は紅くて言葉が浮かばなかった。項垂れて受け取った尊に宗像も多く語らなかった。
「……歩いてた先にお前がいただけだ」
「幸運だな。そして偶然にもオレは吠舞羅の参謀から周防尊の保護と世話を依頼されたというわけだ」
反論の余地はない。
「…欲しかったんだよ」
「十束多々良がか」
頷くと宗像がしばらく考えこむ。…いなくなってほしくねぇんだ。尊の知らないところで知らない時に死んだ十束の残り香を尊は必死になってかき集めた。琥珀の双眸をいっぱいに湛えて潤みに揺らぐのを宗像は一瞥して嘆息する。
「親しい人間を亡くして、その人間が居ないという状態が日常になるのが承服できない話は、よく聞くが……お前もそれか」
「忘れるわけにはいかねぇ」
十束を亡くしたことは尊の中で過去ではない。吠舞羅の名を冠す団体の幹部でもあり、犯人探しは本格的になっている。幹部を無造作に殺されて引き下がる訳にはいかない。いかせるような性質のものばかりでもない。
睨み上げる尊の頬へ宗像が打擲した。平手であったのは温情か手加減か。冷静に整う奥で峻烈な憤りが感じられる。
「甘えるな。それを理由に暴れるなら私の方でも手加減はしない。そんなくだらない理由で騒ぎを」
宗像が話せたのはそこまでだった。飛びかかった尊が馬乗りになって宗像を殴りつけた。もともとこの房は特殊な能力者を閉じ込めておくためのものだ。能力を殺いだり無効化したりする細工が施してある。尊を突き動かしたのは純粋な暴力衝動だった。胸ぐらをつかんで引き起こすところへ噛み付くばかりに牙を剥く。
「……十束はくだらなくねぇ」
「そういうところが甘えているという」
宗像の手が尊の脇腹を一撃した。骨のまもりがない場所は臓器へ直接衝撃が伝わる。痛みと痙攣に隙が生まれ、そこをつかれた。体勢は逆転した。尊は固い床へ頭部を叩きつけられ意識が明滅した瞬間にはうつ伏せに拘束されていた。日常的に確保と拘束を行う宗像に対して絶対的に経験値の差があった。
「…ふざけてんじゃねぇぞ…」
こめかみへ筋が浮き、歯を軋ませる尊に宗像は冷徹に言葉を投げつける。
「やってくれたな。歯がイッたぞ。そういうところも甘ったれてるな」
「クソメガネ」
口の端を吊り上げて嗤う尊の紅い髪が鷲掴まれた。そのまま躊躇なく床へがんがんと顔面を叩きつけられる。咳き込んだ尊の唾は紅く泡立ち、鼻腔から出血する。
「――ぁが…げ、は…」
ぼたぼたと粘ついた紅の花が散る。どうした周防。殺すつもりなら相応の覚悟があるんだろ? うそぶく宗像の言葉が氷のように突き刺さる。もう追うな。
「うるせぇ」
地を這う低い声に宗像の表情が抜ける。
「ならばこの程度のこと、意に介さないな?」
ひたりと手が大腿部へ触れてくる。ベルトを揺すられ下腹部へ冷たい手が滑りこむ。膝を蹴り開かれて頭は床へ押しつけられる。唇を舐めるような気配を感じて尊は苦々しく顔を歪めた。宗像が尊を抱くときいつも唇を舐める。同意がないだけで破壊力がこんなにも違う。構えさえ許されない尊は暴力的に開かれた。かすれた悲鳴が漏れて口元や目元が引き攣る。それさえ呑み込むように寄り添ってのしかかる熱源は氷にも似た。鼻と喉の奥が出血で気持ち悪い。口や鼻から垂れるものは紅く粟立つ。嘔吐のように痙攣的に繰り返す。胎内に感じる膨張と耳朶の濡れた吐息。早くなる鼓動と脈と上がる体温。体の熱の上昇の裏で意識だけが冷えていく。
「みこと」
泣き出しそうな慄えは声の振動ではない。感覚的な判別のもとで感じる震えだ。
「お前は、どうして…ッ」
何も聞こえない。
尊は四肢を投げ出して脚を開く。俯せて揺さぶられながら尊の意識は耳へ嵌めたピアスにだけ向く。お前をこれだけにしたやつを見つけ出す。お前を殺したやつを見つけ出す。重たげに瞬いた目蓋は眠るようにゆっくり閉じる。強く突き上げられて、けは、とむせた。床へ散った紅い花は擦れてただの血痕になっていた。
気がつくと壁に背中を預けていた。鼻梁へ湿布が張られている。冷たい感触と鼻が通るような清涼を感じた。毛布がおざなりにかけられている。尊と距離をとった宗像の脇へ救急箱がある。手当をしたらしかった。拘束も無理の無い姿勢へ変わっており、関節もきしまない。眼鏡の煌めきに隠れる一瞬に見えた宗像はひどくやつれて見えた。部屋は薄暗い。光量が違うと思ったら煙草の火が消されていた。今は二人共喫んでいない。
「周防。オレは…――私、は」
お前にそれを渡したことを後悔している
宗像はそれだけを言うと立ち上がる。医療スタッフが必要か。…いらねェ。宗像はそのまま背を向けて房を後にする。施錠と扉の開け閉ての音が重厚に響いた。
口の端がつり上がる。だがそれも一瞬ですぐに気怠いような表情へ変わる。預けるように力を抜いて指先でピアスに触れようとして拘束に気づく。肩をすくめても届かない。さして執着もなく動作を終えると体を投げ出した。飴色琥珀の双眸だけが睥睨するように正面を見据える。
覚悟はある
なにとひきかえにしても
かならず
「…たた、ら…」
かすれた声は泣き出す前のように細くかき消える。唾と一緒に嚥下する。
世界の端を見る
覚悟は、ある
《了》